西郷どん第36話「錦の御旗」
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最終更新日:2018/11/18
歴史
物語はついに鳥羽伏見の戦いに突入しますが、薩長軍は本来討幕の密勅(慶応3年10月)を受けたにも拘わらず慶喜に大政奉還(慶応3年10月)を断行され武力倒幕の大義名分を失っています。すると大久保利通や岩倉具視は「王政復古の大号令」(慶応3年12月江戸幕府を廃絶し同時に摂政、関白を廃止し三職の設置による新政府の樹立を宣言した政変。)を発し慶喜に辞官納地を命じました。まさに大久保と岩倉は政治工作(朝廷工作)のプロで色んな手を考えます。結果天皇がそう命じたという雰囲気を醸し出しています。
日本国内の戦争はいつの時代も天皇を味方につける事が勝利への大前提となります。そのために様々な政治工作を行います。天皇の権威を借りるというか皆朝敵にはなりたくありません。朝敵と言われたとたん皆ひれ伏します。天皇には逆らえない。天皇はいつの時代も神輿に乗る存在でした。自らは決さずことを起こさず(未来永劫天皇制を維持する為に歴史から得た知恵)という存在でそれが日本の文化、歴史でした。但し例外は古代天皇家兄弟同士で争った時と(大化の改新の頃)、後醍醐天皇の時代です。近代では終戦の御英断を賜ったときです。
「王政復古の大号令」に前後して西郷は口実つくりに幕府を挑発するための工作を行います。いわいる江戸への破壊活動です。篤姫の護衛という名目で浪人500人ほど集め勤皇と称して豪商等を襲い江戸の治安は極度に悪化し「薩摩御用盗」と呼ばれる程でした。そしてたまりかねた幕府側庄内藩による江戸薩摩藩邸襲撃事件が起きます。
それに呼応して大阪城の慶喜は慶応4年(1868)元日「討薩表」を発し朝廷への訴えと薩摩勢討伐のため京都へ15000人の軍勢を進軍さます。3日には戦闘勃発この時新政府軍(薩摩藩主力)5000人ほどで幕府側が3倍もの兵力で圧倒していたが指揮命令系統がうまく機能せず苦戦したようです。TVでは新政府軍が苦戦してるようでした。いずれにせよ「錦の御旗」の出現により戦局は一気に新政府軍有利となります。
この「錦の御旗」の出現についてはまたしても、大久保、岩倉の朝廷工作によるものでした。3日に朝廷では緊急会議が開催され大久保は「徳川征討のため布告と錦旗が必要である。」と述べ福井藩松平春嶽は「この戦は徳川家(慶喜)と薩摩藩(西郷)の私闘であるため朝廷は中立を保つべき。」と論じました。結局議定の岩倉が徳川征討に賛成し大久保の構想が実現しました。もともと大久保と岩倉の出来レースみたいなものです。
慶喜は四候会議では政治力を発揮しイニシアチブを取り最後には大政奉還を断行して薩長の思う通りには実行させなかったが、朝廷工作では大久保、岩倉に「王政復古の大号令」というクーデターを起こされ朝廷工作には遅れをとります。(具体的には岩倉が手引きし薩摩、土佐、安芸、尾張、越前の5藩の兵が京都御所の門を封鎖し新政府の樹立を宣言したこと)これにより徳川慶喜の実質的権限は失われてしまいます。尾張、福井の親藩が含まれているのは驚きです。言葉言い換えれば孝明天皇監禁状態です。
それだけ薩長もどんな手を使ってでも討幕のため必死だったのです。この頃朝廷内では不可思議なことが起きていました。孝明天皇崩御、36歳という若さで、暗殺との噂もあります。薩長の思う通りにコントロールできなくなったためとか戦前戦後様々な論争があり未だ決着がついてません。、そして幼少の睦仁親王(明治天皇)が即位しこれまで追放されていた長州派の公家が続々復権したこと、はたまた明治天皇すり替え説等、歴史の闇が未だ明かされることなく存在しています。
さてこれまで、薩長軍、幕府軍、どちらが官軍かという位置づけは当初ありませんでしたが、薩長軍(新政府軍)が「錦の御旗」を手にしたことにより官軍となり、幕府軍は朝敵となったのです。当時この御旗を見た相手兵士には心理的動揺は大きかったに違いありません。朝敵になると末代までの恥となりご先祖様にも申し開きができないと言うのが当時の考えでした。
慶喜も例に漏れず朝敵となってからは意気消沈しています。3日には勇ましく出兵させましたが、6日には大阪城の兵士に檄を飛ばしながら夜中に軍艦で江戸に退却するという始末で3日坊主もいいところ、徹底的に戦えば勝てたかもしれないのに信じられない大将です。よく「国内が内戦状態になれば外国人に侵略されるから素晴らしい御英断であった。」とか言われますが、だったら武士らしく徹底抗戦して自の命と引き換えに、江戸を新政府軍に引き渡すとかやりようは色々あったはず。
結局論ずれば弁が立つ才気はあったが武人ではなかったということ。慶喜公は徳川264年平和国家が生み出した将軍であり、他方雄藩は幕府からの様々な圧政のなか目を盗みながら蓄財し下級武士がのしあがり討幕するという、一種の下剋上であったのかもしれません。鳥羽伏見の戦い以降官軍(新政府軍)は京都以東~箱根までさほどの抵抗もなく進軍して行きます。なぜなら尾張藩徳川慶勝が諸藩を官軍側につくよう説得したからです。もともと尾張藩は代々勤皇の家風であり徳川御三家ですが将軍も一度も出さず徳川将軍家への反発もあったのです。このことから察するに徳川家も一枚岩ではなかった。慶勝は慶喜へ辞官納地に応じるよう説得するのです。そして物語は「江戸城無血開城」と続きます。
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